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玉音放送(ぎょくおんほうそう)|2015年8月

 天皇陛下のお声を尊敬をこめて玉音という。毎年8月が近付くと「耐えがたきを耐え忍び難きを忍び‥」と終戦を告げられた玉音放送がおもいだされる。

  1945年の終戦の詔勅から今年で70年の節目。

 昭和初期に生をうけた者にとって、8月が近付いてくるといやがおうでも第二次世界大戦、大東亜戦争の終結の時のことが頭に浮かんでくる。その時を経験した一人として当時の新潟市のことを思い出して書きしるしてみます。

 大規模な空襲をうけることなく終戦を迎える事ができた新潟市でしたが、昭和20年頃は、5月頃から8月にかけては頻繁に米軍の小型戦闘機グラマンが太平洋の航空母艦から発進して福島県から阿賀野川沿いに新潟港を目指してやってきて小型爆弾を落としていた。主として港湾設備や輸送船舶の破壊が目的なのだが、その頃ともなると新潟港もろくに船らしい船もなかった。何隻かの船が港近くにすでに破壊され座礁していたのが思い出される。米軍機は適当な目標が見当たらないと市内上空に入りパイロットの顔がはっきり見えるほどの低空を遊覧飛行の様に楽しそうに飛びながら残った爆弾を機体を軽くするために適当に放り投げて帰って行った。そんな一発が今の第四銀行住吉町支店東側の道路、当時は早川堀でその堀に止まっていた人糞を運ぶ小さな肥やし船に命中、辺り一面人糞だらけになったとそんな話もあった。当時のトイレは全て汲み取り式、近傍の農家が野菜を積んで新潟に売りに来て、帰りは肥料となる糞尿を積んで戻るのがお決まりだった。

 昭和20年頃ともなると日本各地の主要都市が毎日のように米軍の爆撃空襲被害の報道が続き、特に3月の東京の大空襲、同4月には米軍の沖縄上陸作戦が伝えられ、日本の劣勢が明白となり、神風を信じ神国日本に敗戦は無いと信じていた日本国のムードも次第に暗く重いものに代わってきた。

 8月1日の夜9時過ぎ、富山県方面から北上する米軍爆撃機編隊を報ずる東部軍管区情報がラジオから流れた。いよいよ新潟市がやられる番と父と二人だけで園舎内におったが、これで自分達の運命も今宵限りと覚悟を決めた。しかししばらくしても米機の来襲は無く新潟の街は静かのままだった。やがて南西方向の山手の上空が真っ赤になり長岡市が空襲されていることが報じられた。自分達の運命が今夜限りでないとはわかったが、ホットする気持ちではなくちょっと伸びただけだと力ない気持ちで長岡市上空を眺めた。

 その頃の新潟市内では空襲を恐れて多くの家庭が春頃から田舎の知り合いや親類を頼って移り住みが始まっていた。市内の街の人の気配も日ごとに減り静かになるのを感じた。実際の人口も普段の何分の一と少なくなったのでは。当の赤沢一家にしても、私の母(先代園長)と弟妹4人は母の実家新津の秋葉山近くを頼って移り住んだ。

 当時の市内の道路は主要道以外の多くは今と違って未舗装だった。東湊町通りが自分の存命中に舗装は無いと思っていた。それら未舗装の道路の大半は道幅の半分近くまで深刻な食糧不足のたしにと家庭菜園として耕されナスやネギ、大根などが栽培されていた。

 8月6日朝、広島に原爆が投下された。新型爆弾が投下されたと報じられたが、詳細は一切不明。新型爆弾と聞かされても何の事か見当もつかなかった。8日だったと記憶するが、米軍機一機が飛来しビラを撒いて去った。そのビラを拾っても読まないようにと通達が町内を通して告げられてきた。新潟市に新型爆弾を落とす予定との記述があったように思いだせる。9日長崎市に新型爆弾が投下された事がラジオを通して知った。

 8月10日か11日だったか定かでないが、当時の新潟県知事畠田昌福名で新潟市民は10キロ以上に避難するようにとの通達が出された。これは新型爆弾への対応のためと聞かされた。中央区の本町通りと万代橋に通じる柾谷小路との交差点が新潟市の起点、そこから直線10km以上の地点に避難せよということだ。

 父と二人で大八車に取りあえずの荷物を積んで当時大江山村大淵(現江南区)の知り合いを頼って避難することにした。市内は12日朝からぞろぞろと街の通りは避難する人達のリヤカーや大八車が連なった。13日までに避難するようにとの通達、その期限ぎりぎりの13日の夕刻出発した。柾谷小路、万代橋はリヤカーと大八車の列で外国難民の避難風景そっくりの行列だった。(※大八車とは日本古来木製のリヤカーに似た二輪の手引き車ののこと。車輪も木製で接地部分は鉄製のわっかになっているので引くとガラガラと賑やかな音がする。粗野でガサツな男をガラッパチの語源か?)

 14日の朝方に知り合いの家に到着、ひと眠りしてまた私どもは夕刻に新潟の園に引き返した。

 何のための避難だったのか。15日には園に戻った。しかし、正解だった。

 そして15日、ラジオは朝から正午に重大放送があるので全国民は聴くようにとのアナウンスが繰り返された。天皇陛下のお言葉の放送と聞いて前代未聞のことと緊張した。

 放送の始めにアナウンサーが起立するよう告げた。放送は雑音がひどくて極めて聴きづらかった。用語も難解で聴き取れても理解は難しかった。ただ「受諾・じゅだく」という言葉がアナウンスにも繰り返され、とにかく相手の言う事を受け入れた、負けた、つまり降伏・戦争の終わりということかなと理解し、張り詰めた緊張が抜けるのを感じた。

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 昨年8月の「園だより」を読み返すと47歳県会議員が県議会で大泣きした事件、岡山県倉敷市小学校5年生少女を誘拐して捜査員にこれは妻ですと大真面目に答えた49歳男の事件に触れている。

 特別に厳しい環境で成人したとは思えない両人、一体どんな影響で上記のようになるのか、間違ってもそんな風になって欲しくないとそんな思いにかられるような事件です。それだけに一体どんな家庭で親元で人となったかが気になるところです。

 冒頭に掲げた韓非子の言葉ですが、この語句も実は3年ほど前の「園だより」で取り上げた言葉です。上記の県議員の話や誘拐事件を知ると、あらためてこの韓非子の言葉が思い出されるのです。まずこの語句の意味を簡単に説明しますと以下のようになります。

 「厳しい家ではしっかりした頼もしい男は育たない。また思いやりある家庭では子どもはダメになる。」

 虜とは捕虜のことで昔の中国では戦乱のあと捕虜を連れ帰り奴隷として働かせた。そんな関係が平常的になり虜は使用人・雇人の意味に変化していった。

 箸の上げ下げまでも一々口やかましく主人(親)が細かく指示命令するようなところ(家庭)には頼もしく信頼できるような使用人(子ども)は育たない。またあまり甘やかし持ち上げるばかりでは子どもはダメになる。(※悍=かん・荒い・気の強いの意。敗=敗れる、ダメになる)

 韓非子の思想は、人は放っておくと悪い事するので規則や刑罰が必要だという性悪説。人は理想を追い求めるもので本来的には善であるとの孔子や孟子の理想主義思想の性善説と対比される。何れの面もそれぞれもっともであり、人は常に善と悪の間で揺れ動いているのではと思いますが?

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先月「武者小路実篤氏」をご紹介しましたが次の様な言葉も味わい深いもので追加ご紹介します。

◇ 人生というものは思わぬときに道が開けたり 閉じたりするものだ。

◇ 結婚は早すぎてもいけない 遅すぎてもいけない 無理が一番いけない
  自然がいい。

◇ 桃栗三年柿八年 だるまは九年 俺一生。
  (註:だるま達磨大師、インドの高僧   ・禅宗の始祖、九年壁に
  向かって 座禅の結果悟りに達したと伝えられている)

◇ すぐれた人間は いざという時が来ないでも
  いつも全力をだして仕事をしている。

◇ 一から一を引けば零である。 人生から愛を引けば何が残る。
  土から水分を取れば  砂漠になるようなものだ。

◇ 自分を責める事を知っている者は善人だ。他人ばかりを責めるのは悪人だ。

◇ 趣味ということは馬鹿に出来ない。人間の上等下等は趣味で大概決まる。

◇ 君は君 我は我なり されど仲よき。

◇ 自然 必然 当然。   三つのものの  合一する道を歩く確かさ。

◇ 心配してもはじまらないことは  心配しないほうが利口だ。
  心配すべきことを  心配しないことはよくないが
  それは大胆に  いじけずに  心配すべきだ。

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