蚤虱 馬の尿する 枕もと 松尾芭蕉|2016年11月

 「ノミ・シラミ うまのシトする まくらもと」 。 この句は 江戸時代の俳人松尾芭蕉の旅日記「奥のほそみち」に記されている。芭蕉が327年前の元禄2年(1689年)5月に江戸を発ち、東北、越後、北陸を経て現在の岐阜県大垣へとおよそ2,400㎞を徒歩で約5ヶ月をかけて旅をした。その道中旅日記が「奥のほそみち」で、上掲の句は宮城県の鳴子温泉の近くの尿前(しとまえ)という地名の所に宿した際に詠んだもの。芭蕉はその後越後出雲崎では「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」の句を詠んでいる。

 前置きが長くなりましたが実はこれからのお話は「虱(シラミ)」のお話しです。

 近年日本を訪れる外国人が年々増加している。特に 電化製品や日用品を大量購入する中国人の爆買いが話題になりましたが、一時より鎮静化して少なくなったようです。観光や商目的の訪日外国人は年々増加しております。日本に対する関心が高まり多くの外国人が来訪することは大いに結構なことです。 しかし、いいことばかりではありません。

 昨年神宮外苑の森がデング熱の発生源ではないかと大がかりな媒体の蚊の駆除作業が実施されたことはご記憶のとおり。この場合は訪日外国人ではなく外国帰りの日本人が持ち帰ったものだったようでしたが、何れにしろ外国からはいろいろなものが入ってくるようになりました。

 持ち込まれて都合の悪いものの中には病原菌の他に害虫があります。中でも日常生活にとってノミ やシラミ があります。いま日本国内では言葉としてのノミ・シラミを知っていても実際に直接に現物を見たことのある人は極めて少ない。300年前の徳川時代どころか第2次世界大戦後の数年は日本人の生活の中ではノミ・シラミが大繁殖した。当時日本を占領中だった米国軍は、殺虫剤DDTを学校や人の多く集まる駅前などで生徒や通行人に対して衣服や頭髪に白い粉末DDTを徹底的に散布したものでした。しかし、その人権無視も甚だしかった徹底的な散布のお蔭で日本国内のノミ・シラミはほぼ絶滅状態となり、その姿を見ることなく半世紀以上の年月が経過した。その後、DDTの使用は発がん性があるとの理由から、1970年代から世界的に使用禁止となった。

 DDTの使用がなくなったことに加えて外国からの持ち込みもあって、日本国内ではいろいろな害虫、特にシラミの発生が散見されるようになったようです。

 シラミと言っても何種類かありますが、衣服に寄生する「ころもシラミ」や頭髪に寄生する「あたまシラミ」や陰毛に寄生する「けジラミ」があるが、特にここで問題にするのは「あたま・シラミ」です。

 頭の毛髪の中に寄生する「あたま・シラミ」の発生が全国的みられるようになり、最近、新潟市内の小学校や保育園などでの発生も耳にします。

 シラミにいったん寄生されると「あたまシラミ」の場合、まず頭が猛烈にかゆくなります。子どもがやたらに頭をかゆがったりしている場合、その寄生があるかどうかをうたぐってみてください。寄生している場合下図のような虫がいるかどうかを注意深く確認してください。また成虫が見えなくとも毛髪に1ミリほどの白い卵の付着があれば寄生はかくじつです。卵はさわったくらいでは絶対に落ちません。普通のシャンプーで洗っても絶対に駆除はできません。駆除専用シャンプーを薬局で購入してその使用説明書に従って駆除して下さい。(下図実物の寸法は縦2ミリ、幅1ミリ位でしょうか)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新潟弁について その3

「ばんば」
赤ん坊や小さい子どもをおんぶするとき新潟では「ばんば」するという。最近その「ばんば」するという言い方をほとんど耳にしなくなった。大体この頃の母親は前抱きがほとんどで背中に子どもをおんぶすること自体見かけなくなった。子どもでも、大きくなった場合や大人をおんぶするときは普通におんぶすると言ったように記憶しているがどうでしょうか。小さい赤ん坊の場合たまに「ばんば」するという表現を耳にすると、何とも言えないほのぼのとした温かい響きを感じますが単なる思い込みでしょうか。 

「しょうたれこき」
だらしなく周囲を不潔乱雑の状態にする人のことを「しょうたれこき」あるいは「しょったれこき」ともいう。
常習的に一定の行動をくりかえす人のことを新潟弁では「こき」ということは前回でも触れました。短気ですぐに興奮して怒る人の場合は「怒りこき」となる。またお喋りすきな人は「しゃべっちょこき」となる。 

「もうぞう」、「モーゾ」:
寝言のことを「もうぞう」といいます。妄想が語源でしょうか。何を言っているのかさっぱり意味不明の場合「何もうぞうを言ってるんだ」とこんな風に言いましたがいまはどうでしょうか?語源的に同じ表現からでしょうか、老人性痴呆いわゆるボケ・認知症になってしまった場合、新潟では「もうぐれる」と言いますが、これも今はどうでしょうか‥?
「年のせいかあのバアーさんもすっかりもうぐれてしもて、どうしょうもないてば」 と。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

秋です:爽やかな季節を満喫しましょう|2016年10月

 10月、厳しい冬の季節到来前のいっときの爽やかな時期です。人里の低地の紅葉はまだですが、山の高地ではすでに始まる頃です。富士山初冠雪の報道もそろそろです。リオ・オリンピックの興奮も終わり、プロ野球やサッカーリーグ戦も最終局面に入り、新潟人にとっては地元のアルビレックスのJ1残留が気になります。

 厳しい夏の暑さも去りました。子どもさんと一緒に手近な里山ハイキングを楽しまれてはいかがですか‥。子どもと思っていても3歳頃になると急速に体力がついてきます。そんな時に体力試しにもなる山歩きは、頂上に達したときの達成感、一つのことをやり遂げた時の満足感は子どもにとってもわかりやすい。

 手じかな里山と言っても山は山、街中を遊歩するのと異なり途中で中断してタクシーで帰る事も出来ません。コンビニもありません。そんな普段の便利な生活世界ばかりではなく、別種な環境があることを知ることも貴重な体験です。子どもに限らず大人にとっても山歩きは常に自然の大地から隔離された人工の便利さにどっぷり浸かった生活から離れて、自然に気付くことの素晴らしいきっかけや体験にもなるはずです。

 そうは言ってもいくら里山でもすでに山歩きを体験されている人はともかくそうでない人にとっては勝手の違った手数なことかもしれません。行く先の決定、計画のための調査等々があります。それはしっかり立ててください。そんなバリアーを一度乗り越えて子どもさんのためにもトライしてみませんか。子どもにとっても親にとっても貴重な体験になるはずです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

先月の園だよりに引き続いて新潟弁について

 8月のある日 ひとりの卒園児が保育園に顔を見せた。小学校4年生のその子は卒園と同時に両親の仕事の都合で長野県上田市に引っ越して行った。その子は女子ながらも元気印のかたまりのような外向的行動派のたくましいタイプでした。在園中も縄跳びやカルタ取りなどは常に最上位の成績だった。行動派だっただけによく一人で遠方まで飛び歩くので誘拐事件や交通事故にならなければとそんな気がかりな子でもあった。長野県への転居、もともと新潟下町育ちだっただけに言葉の違いからのいじめ問題にあわなければと気がかりだった。それとなく学校生活に触れてみたがやはり懸念のとおり学校生活は楽しくないようだ。その要因の一つとして言葉の違いがあるのではと尋ねたらそのとおりとの答え。あまりそればかりを話題にする事も出来ないまま、5分ほどおしゃべりをして彼女は名残惜しそうに去って行った。これからうまく問題を乗り越えて彼女なりに環境に適合することを願うばかりだ。

 「おはよーございます、今日のあんべぇなじらね?」
 老人同志や普通の新潟人同志が一日の始めに取り交わすごくごく普通のおなじみの会話で、新潟人にとってはぴったりくる和やかな出合いのあいさつ言葉だ。

 昭和初期生れの昭和人にとっては、今の新潟弁はたしかに標準語と大差がなくなり他府県人にとって分かりやすくなった半面、なにかぴったりくるもの(インパクト)が薄れて隔靴掻痒(かっかそうよう:靴の上からかゆいところをかく)ような物足りなさを感じるのは否めない。

 「こっちゃり」
 まったく耳にすることがなくなったが、「こっちゃり」とは嬉しいとか思わぬ儲けものしたときに使う表現で、何かがうまくいって思わぬトクをしたときは「おおこっちゃりした」といった言い方をした。サッカー相手方がオウンゴールしてくれたときはまさに「おおこっちゃり」だ。

 「ちょろけ」
 ふざけたり面白い仕草や動きで人を笑わせたりすることを「ちょろける」と言った。いわゆる3枚目的愛嬌動作ギャグで他人を楽しませてくれる楽しいキャラクターの人を「ちょろけこき」といったりする。「○○こき」という表現は「うそつき」という言い方を新潟弁では「嘘こき」のように言ったりする。また動詞的に「ちょろける」といった言い方もした。

 「のめしこき」
 朝起きの苦手は「寝坊こき」、物事の手順を忠実に守らないで手抜きや怠けることを「のめし」と言い、その常習犯や怠け者を「のめしこき」という言い方は今でも新潟では通用しているでは。

 また試験対策の参考書や虎の巻のことを「のめし」と呼んだ。考えてみるとその言い方は新潟独特のもので他府県や今の学生には全く通じないのでは。

 「あちさん」
 新潟以外の人にとって分かりにくい言い方の一つに「あちさん」がある。よその人のことを意味する「あちらさん」を省略して「あちさん」になったかと推定される丁寧な言い方である。

 他人の邪魔や迷惑にならないようにとの配慮から「これはあちさんの物だからさわっちゃだめだよ」とか「あちさんが居るから静かにしましょうね」と云った言い方をする。この言い方が他所の人にとって分かりにくい。「阿智・阿知さん」という名字を想像し、それにしてもなんとまあー「阿智さん」という方が多いのかと不思議に思ってしまいます。

 「ゲッポになったらショーウシらて」
 10月は「体育の日」もあり運動会も多い。かけっこなどの順位でビリになることを新潟弁では「ゲッポになる」と言う。ゲッポとは下方が語源か? ショーウシは笑止とも書き平安期の文書にもあり、恥ずかしいとか気の毒を意味する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

成せば成る|2016年9月

 8月上旬から中旬はリオ・オリンピックの毎日でした。閉会後は何か日本中が急に静かになったような気がします。日本代表選手たちの獲得メダル数は金メダルが41個とこれまでの最多だったそうで、よく頑張りました。金メダル数では国別6番目。テレビ画像ではほとんど日本選手の活躍が主ですが、たまに他国選手の活躍が放映されるとそれはそれ、いろんな国がいろいろな競技があるもんだなとつくづく感じました。

 そしてそのそれぞれの活躍を観戦しながら、人間業を絶する妙技を目にする時、絶えず私の頭に浮かんだ言葉が実は上記の上杉治憲鷹山(はるのり・ようざん)公の「成せば成る‥」でした。

 この言葉の上杉鷹山公について少し触れてみます。

 上杉治憲鷹山はもともとは九州日向(宮崎県)の3万石の小藩高鍋藩秋月家の出身。10歳の折米沢藩の養子となり、17歳で藩を継ぎ35歳まで藩主を勤めた。藩主を退いてから鷹山と号した。

 米沢藩上杉家初代藩主は上杉謙信の養子景勝、景勝は家老直江兼続の働きもあって豊臣秀吉に認められ会津120万石の領主となった。その後関ヶ原の戦いで反徳川軍についたため上杉家は本来取り潰しになるところを再び家老直江兼続の働きで米沢30万石に縮小されたが存続、さらにその後跡継ぎ問題の不手際のため15万石に減らされた。

 しかし、上杉家は財政的に縮小したにも関わらず藩士の削減・リストラはしなかった。もちろん倹約に努めたが財政は極度に悪化、治憲が藩主を17歳で引き継いだ頃は破産状態だった。当然治憲の改革に対する努力は筆舌に尽くし難いものだった。

 120万石当時の裕福な大藩時代の経済感覚から抜け出ることはそう簡単なことではなかった。治憲が藩主として諸策を提案しても、養子の悲しさ小藩3万石とは諸事ことなるのですと家老や老臣たちからは軽くあしらわれるという連続だった。

 しかも治憲のとった政治姿勢は現代にも通じるきわめて民主的なもので、年貢の決めなども農民百姓や商人が納得する形をとり、決して権力づく強制・強権的な態度はとらなかった。地場産業を奨励し、さらに和紙つくりや機織りの技術を他所から指導者を招いて奨励発展に力を入れたりときわめて地道に根気よく積み重ねていった。当然そのための原動力となる植物、漆器の元となる漆の木の植林し、和紙の原料となるコウゾやミツマタ、染料の原料ベニバナの栽培等々にも力を入れた。

 上杉治憲が10代治広に譲位するにあたって次のような言葉を伝国(藩)の辞としてあたえている。
①国・藩は子孫に伝えるものであって藩主の私物ではない。
②領民は国・藩のためにあって藩主の私物ではない。
③国・藩は領民ために存在し藩主ためにあるのではない。

 米国の故ケネデイ大統領やビル・クリントン元大統領が尊敬する日本人として上杉鷹山をあげたそうです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 園の入口正面玄関の一角に熱帯魚の水槽が置いてあります。写真はその熱帯魚ミッキイマウス・テトラ、 その他数種類の熱帯魚が泳いでます。ミッキイマウス・テトラはこの小さな水槽の中でちゃんと繁殖しているのです。注意深く観察すると体長数ミリの小さな半透明な稚魚を見つけることができます。園児の中でもはそれに気付いてその成長を楽しみに見守っている子もおります。

 創立百周年の折りに設置したこの水槽、設置して26年になります。ところが今ちょうど孵化(フカ)したばかりの稚魚が何匹か泳いでおります。このように小さな可愛い稚魚や虫が孵化することを新潟弁で「ミヨケル」と言いました。*孵化=卵から生物がかえること。

 「言いました」と過去形にしたのはこの言い方を最近耳にした覚えがないからです。身近の職員に尋ねてみました。凡そ30歳台が分水嶺のようです。もともと新潟育ちの40歳以上の人は大体わかるようですが、20歳代の人はほとんど知らないようです。

 テレビナドのお蔭で九州鹿児島の言葉も、青森の人もずいぶんと同じような喋り方になりました。と言っても文字に書けば区別がつきにくいがその土地の人がそれも年配者が話されるとさっぱり聞き取れないことがあります。聞き取りにくくともその土地独特な喋り方を耳にすると、今まさによその土地・人と接して居るんだと実感します。

 方言や訛りの違いがなくなることはわかりやすくて都合の良いこともありますが、旅に出たときその実感が薄くなります。

 昭和一けた生れの園長、子どもの頃の新潟弁がなつかしい。
今、ジャンケンをするとき口にする言い方は日本全国どこでも「ジャンケンポン」ようだが、昭和の初めの頃の新潟の男の子は「ちゃいろ、ちゃいろ、ちゃいろえっす」と掛け声したものでした。「ジャンケンポン」という言い方は女の子が気取ったおしゃれな言い方で、当時の新潟の男の子はそんな言い方はこっぱずかしくて決して言わなかった。

 当時、西蒲原の中之口の子どもたちが「ほおうけんや」といっていたのを耳にしてびっくりした記憶があります。当時は土地土地によって「ジャンケン」の掛け声は随分ちがったようでした。

 今、新潟弁と言っても標準語とほとんど変わらくなりましたが、l喋るときの抑揚やアクセントには違いがでる。さらに新潟の人は「イ」と「エ」の区別が苦手だ。「越後の苺」を「イチゴのエチゴ」と言ったりと‥。

 私自身、「みなさん椅子も持ってきて来て下さい」と言ったつもりが「いす」を「エス」と発音したため「エス」って何のことですかと東京の職場で聞き返されたことがありました。

 また、雀、鯨、鼠を新潟弁ではそれぞれ「すずめ」「くじら」「ねずみ」のように初めの太字にアクセントをつけますが、一般的にはそれがありません。

 新潟弁にはまた別の機会に触れたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

親の意見と茄子・なすびの花は千に一つの無駄はない|2016年8月

 「7月園だより」で東京都の舛添前知事辞任の話題に触れました。クリーンな政治姿勢を売り物にして自民党を離党して都知事の座を勝ち取った舛添要一氏が、そのイメージとかけ離れたあまりにもセコイ金銭感覚にすっかりさめてしまいました。つくづく人の本性の見極めの難しさを感じた問題でした。「園だより」で彼は親の意見をきいたことがあったものかどうかと感想を述べました。

 そこで「親の意見」が気になってきました。正直、わたくし自身の場合親の意見忠告はまたかとの印象が先に立ってそれが正しいとわかっていても素直に従わなかったかあるいは反発が先に立って受け入れることが多くはなかったように思い出せます。後になってどうして素直に言うことが聞けなかったのかと反省したことは一再ならずでした。

 表題の格言ですが、茄子・なすの花は花だけで終わらないで確実に結実する率が高いことからこの言葉が生れたわけですが、実際の話、結実率は3割位だそうですがそれはそれとして「親」が関わる格言を考えてみたいと思います。

「親の意見と冷酒は後でじっくり利いてくる」こんな格言もあります。

 皆さんそれぞれ親の立場です。子どもたちに折に触れ注意や意見・希望頼みごと等子どもに対して多々あるかと思います。絶えず口うるさく言っていると反発招くばかりか逆効果になる場合もあります。

 ちょっと汚い言葉遣い恐縮ですが「親の意見と牛の小便」こんな喩えもあります。

 牛の小便はだらだらと時間が長くかかる割に肥料としてはあまり利かないのだそうです。親の意見もグチグチ長々説教していると逆効果になります。

 有名なところでは「いつまでもあると思うな親と金、いつまでもあると思えよ運と災難」。特に後半の「運と災難」は一生心したいものです。いつまでも親の財産をあてにして結局親離れができなくて親の死亡後も死亡届を出さないで親の年金で暮らしている、そんな切ない話だけはなしにしたいものです。

 「親の心子知らず」
 親の子を思う気持ちもわからないで、子どもは勝手にふるまうこと。

 「子をもって知る親の恩」
 そんな子どもが成長しやがて自分の子どもを持ち、親となって自分の子ども育てるようなると、親の苦労や気持ちがわかってくる。

 「親孝行したいときには親はなし 石に布団は着せられず」
 石は墓石のこと。親が元気の間に親孝行はしたいものです。

 「樹静かならんと欲すれど風やまず 子養わんと欲すれど親待たず」
 生活にようやく余裕が出来、親の面倒をと故郷に帰ったが親はすでに他界していたという中国の故事「風樹の嘆」。

 「親の恩は子で送る」
 親から受けた恩は子供を立派に育てることで恩返しできるということ。この場合の送るは報いる・償うの意味。

 さー皆さん、悔いのない子育てに努力しましょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

間もなく リオ・オリンピック  が始まります

 52年前の昭和39(1964)年10月、東京オリンピックが開催されました。その4か月前の6月に新潟地震がありました。この8月5日にブラジルのリオ・デ・ジャネイロでオリンピック始まります。その4か月前の4月に熊本地震が発生しました。まったくの関係のない偶然ですが不思議な符合です。

 その東京オリンピック開催当時、私事で恐縮ですが私は東京郊外の狛江市のある電子部品工場に勤務しておりました。オリンピック競技のハイライトのマラソンコースが都心の四谷のメーンスタジアムから新宿経由で国道20号線・通称甲州街道沿いを走り確か府中市付近が折り返し点でしたでしょうか。優勝したのが当時世界的なトップランナーのエチオピアのアベベ・ビキラ選手、3位が円谷幸吉選手でした。はだしのランナーとしてあまりにも有名なアベペ選手、一目みたいものと勤務先の工場を抜け出して甲州街道に駆け付けたが間に合わず、到着したときはアベベ選手の通過後でした。

 地震とオリンピックとは何の因果関係があるわけではありません。が、今年に入ってからは国内外とも何か物情騒然となり世界的に平和な生活の維持の見通しに陰りが見え隠れするような気になる空気です。

 特に気になるのが宗教上の信条の相違からの争いで戦争行為になり事実上の殺し合いが世界各処にテロ事件として発生し、平和に暮らしている多数の市民が無差別に被害者になっていることです。

 そんな乱暴な殺伐行為がそれを模倣するような類似行為をひきおこしていることも事実です。また、中国や北朝鮮の動きのように必ずしも関係隣国との関係において話し合いではなく、武力・経済力を前面に出して力で押し切ろうとする姿勢、大いに気になるところです。

 オリンピック開催国ブラジルも大いに問題ありで、現在大統領自身が国の最高裁判所から訴追を受け職務執行停止状態、副大統領が大統領職務を勤めるという異常事態も大いに気になるところです。またドーピング問題でロシアの参加もスポーツ強国だけに大会気運に大いに影響ありです。

 日本としても国内的にも熊本地震をはじめなんとまあ落ち着きのない事件が次から次へとおこるものです。特に7月末に起きた相模原市の知的障害者施設の入園者19名が、一人の元職員の加害者によって殺されるというとんでもない事件には言葉を失いました。薬物中毒による異常者ではないかとも思われますが詳細はまだ不明。多数殺人という短絡的な残虐な行為に単純に至るにはイスラム紛争による殺戮行為の影響が多分にあるのではと思われます。

 日本選手団も続々とブラジル入りしております。活躍を期待します。金メダルをいくつ持ってくるでしょうか、楽しみです。

 梅雨も明け暑さも本格的になりました。健康に配慮して楽しく暑い夏を乗り切りましょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今年もはや半ば、七夕を迎えます|2016年7月

 この6月ですが実にいろいろなことがありました。世界的には英国のEU残留・離脱問題が大きな話題でした。日本的には数多い事件の中で、北海道の山林で一時行方不明となり自衛隊宿舎で6日ぶりに無事に発見された小学校2年生の田野岡大和君のこと、お金の使い方で東京都知事の座を追われることになった舛添要一氏のことなどが、話題を集めた多くの出来事の中で子育て中のみなさんにとっても、大きな関心事だったかと思います。

 大和君の件では、当初の父親の証言が二転三転したこともあって、著名な児童評論家などが『躾(しつけ)』と称する日本的なこども対応の在り方の最悪の見本だ、などと父親の対応に情け容赦ない疑問や言葉を投げかけたりといろいろな意見が百出した。父親の予想に反してこどもの発見が遅れ、初めは山菜取りの最中にはぐれたとの証言が、その後、実は大和くんのいたずらに対するお仕置きと躾の意味で、自動車に乗せずに現場に置き去りにしたとの発言に変ると、虐待ではないかと、中には犯罪的意図に基づく行為ではないかなどと周囲の厳しく空気は変わった。実際の子育てとは評論家の先生方の言いたい放題のようにきれいごとなご意見のように”うまく”片づけられることばかりではありません。

 大和君の場合、無事に生還できたからよかったものの事態が長引けば最悪な結末が予想されるだけに、日程的に最悪事態が次第に強く人々の念頭に浮かぶ頃合いに無事生還の知らせに、日本中がホットしたのではないだろうか。このまま未発見の状況が続くならば評論家の『しつけ論議』の行方がどんな方向に進行したものかと想像するにきわめて興味深い。

 幸いにも大和君や大和君一家の親子関係は評論家先生方の推測に反して明るく健康的だっただけにホットさせられた。また大和君自身が自分の行為に対して父親の取った今回の置き去り処置に対しては彼なりに理解し納得していたようだ。

 大和君事件とは舞台も性質も大きく変わりますが金銭問題で東京都知事の座を降りることになった舛添要一氏のこと。彼自身の行為にたいする弁解主張は終始法律に違反しないから問題ないとの姿勢。東大出身でその後も素晴らしい経歴と実績の持ち主。でも彼の姿勢や論調を聞いているうちに、この方の親の躾はいったいどうだったのだろうかと気になってきました。ご自分が優秀なため、他者の言などはおかしくって耳にはいらなかったのでしょうね。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 30年以上前の話になりますが、保育史調査のため来園された筑波大学研究生の方から教わったのがこの「チクサク・エール」でした。そのエールを幕開けに今年の運動会は、6月18日(土)、日和山小学校室内体育館で予定通り開催いたしました。

 全園児の入場行進・園児代表宣誓・赤沢保育園スペシャルエールに続いて各種競争・紅白球入れ・園児保護者の綱引き等など、最後は恒例の3歳以上園児全員のそして保護者職員による紅白リレー競走、無事にケガや事故もなく楽しく終了することが出来ました。 毎年劇的にレースが盛り上がる紅白リレー、目立って速い走者が勢い余ってカーブで転倒したりと今年も何度か大きな見せ場で歓声が盛り上がりました。遅れを取り返そうと泣き顔で必死に走る子、あきらめ顔でマイペースで頑張る子とそれぞれです。

 運動会では普段見慣れているいつものわが子とは別の一面が発見できるかもしれません。日頃、親の前や家庭では見せたことのない外での顔がみられるのもこんな機会です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

祝 赤沢保育園創立第百二十六回記念日|2016年6月

 明治23年(1890)6月1日、赤沢保育園は新潟市礎町4丁目に誕生いたしました。この機会に創立者赤澤鍾美と創立のいきさつについて少し詳しく説明をさせていただきます。

 創立者赤澤鍾美は元治元年(1864年)10月16日新潟町に生まれている。名前は始め庄吉だった。戸籍記載によると庄吉の幼少時は必ずしも平穏無事ではなかったようで幼くして他家に養子に出され後年復籍している。

 その後の明治11年4月に庄吉は新潟町の臨時教員試験に合格し四番堀小学校に就職している。今の満年齢の13歳の時だ。

 明治新政府発足当時の教育制度について若干説明すると、まず明治6年、義務教育制度制定、全国に小学校を設置開校を決めた。しかしその実施には教場と教員の確保がまず問題となり、教場の多くは寺院等を利用した。教員は資格認定採用試験による臨時教員制度を設け、その試験合格者をもって教員に充てた。その受験可能年齢が旧年齢の15歳、15歳は武家時代の元服の年齢に相当した。元服(げんぷく)とは当時一人前の大人とみなした年齢時の武家のセレモニーのこと。当時は生れるとすぐ1歳と数えた旧年齢の数え方で、十月生まれの鍾美は現在の13歳で合格していることになる。当時の漢文づくめの試験問題を恵まれぬ家庭状況でよくぞ合格したものだ。

 臨時教員に採用された赤沢庄吉は、記録によるとまず当時新潟町に五校あった小学校(鏡淵、四番堀、西堀、洲崎、豊照)の四番堀校に就職している。そして五校を順次転勤している。

 明治政府教育制度発足と同時に正式教員養成のため師範学校を設立している。その卒業生を正式教員として配置し順次臨時教員と置き換えていった。

 明治23年当時、赤沢庄吉は豊照小学校に勤務しており住まいは東厩島町でした。柳都大橋の信濃川を後ろにして秣川岸通りを過ぎて最初の交差点が西厩島町(通称こんぴら通り)の端になる。そのこんぴら通りと並行の信濃川寄りの一角が東厩島町だ。

 正式教員と臨時教員との置き換えの波が、明治23年に庄吉の足元に押し寄せてきた。新潟市教員の在籍記録によると、当時の臨時教員は毎年一年契約でその都度身分と給料額が決められ記録されていた。庄吉の場合大略給料は月額6円~10円程だった。因みに当時の校長は20円前後で師範学校出の正式教員は臨時教員の大略倍額だった。

 明治23年に庄吉に示された条件は鏡淵校転勤と給料が月額27銭の大幅ダウンだった。 100銭が1円ですからおおよそ25分の1の減額になる。おそらく非常勤待機職員の処遇となったのでは‥?。そしてその状態は明治26年3月で終わった。

 かねてリストラの波を予想していた庄吉はあらかじめ準備し教員としてアルバイトに力を入れていたようだ。政府が義務教育制度とその普及、国民皆学を叫んでも、当時の一般民衆の暮らしぶりの大半は貧しく、通学どころかその日の暮らしに大半が必死だった。義務教育年齢に達しても入通学できるのはわずか5人に1人の2割程度だった。入学出来ない子どもは任意に読み書きそろばんを教える個人教師や塾に通って学力を得た。庄吉は勤務時間が終わると自宅でせっせと多くの若者を生徒にしていたことが推測できる。

 明治23年4月3日、庄吉住居一帯が自宅を含めて200戸以上焼失する大火発生、自宅での4月開校の計画が挫折した。しかし、すでに庄吉の教えを受けていた通学生や卒業生たちの尽力で200M程離れた礎町に場所を得てスタートしたのが6月1日だった。

 明治26年臨時教員から完全に解放された。

 と同時に庄吉は名を鍾美(あつとみ)と改めた。当時は戸籍の名前の改名が可能だったようです。鍾は集めるという意味があり、美は未来ある若者という意味がある。若い学生を教えることを目指して自身の希望を精一杯込めての改名が理解できる。

 鍾美は私塾を「静修学校」と命名した。その私塾に通う生徒たちが幼い弟妹や奉公先(勤務先)の赤ん坊を背負ったまま受講するものが多かった。鍾美の家族がその幼児たちを一室にまとめて保育の面倒をみたことが、保育事業の先駆けとなりました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「とん汁の味はいかがでしたか?」春の遠足!!

おかげさまで好天にめぐまれた5月20日、春の遠足は無事に終わりました。

 今回の「とん汁の味はいかがでしたでしょうか?」毎回同じ分量・レシピで作るのですが、当日の天候によって皆さんのおかわりの量が敏感に変わります。気温が低いときは温かいとん汁はおなかにしみこみますが暑さを感じるようなときは売れ足は落ちる。

 平成の初め、旧亀田町時代に完成した「亀田公園」、その初めの頃から利用を続けております。最初に下見で訪れた際バーベキュー窯場をみて「とん汁」作りを思いつき、今ではその組み合わせが春の遠足の定番となり25年以上になります。

 開園当初の亀田公園の周囲は向陽高校と県立保育専門学院以外は建物らしいものは見当たらずJR亀田駅も現在の改築前のもので駅舎も素朴で公園側には出口はなかった。公園へは大江山方面に通じる公道の跨線橋を遥々と渡り約2km近い徒歩が必要でした。公園内の樹木も植林したばかりでひょろひょろと頼りなげでこれでちゃんと根付くかと余計な心配をしました。

 下の展望台の写真をご覧ください。公園の西南方向角にあるこの展望台、開園当初は建物の全体が公園のどこからも見えましたが、樹木の成長とともに次第に目立たたなくなりました。公園到着時に毎度この展望台を背景にして記念撮影をしておりますがその存在にはうっかりすると気づかないほどに周囲の樹木が大きく成長しました。

 今、園内には写真屋さんが撮った遠足時のスナップ写真が展示されております。園児と連れ立った皆さん方の楽しそうなシーンを眺めていると、そのどれをみてもぴっかぴかのオーラを感じます。小学校に入学時の新一年生のすがたのようにいやそれ以上に新鮮な活力を感じます。人生の中で子育て中のそれも保育園児時期は経過や成果が一番わかりやすい時期ではないでしょうか。思わず声援したくなります。 がんばって幸多かれと!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

SIDS(Sudden Infant Death Syndrome) 乳幼児突然死症候群について|2016年5月

 これまで何事もなく元気だった赤ちゃんが何の予兆や持病もないのに事故や窒息ではなく眠っている間に突然死亡してしまう、そんな怖い症例があるのです。そのような症例をSIDS(乳幼児突然死症候群・サドン・インファント・デス・シンドローム)といいます。

 厚生労働省の資料によると、日本での発症頻度はおよそ出生6,000~7,000人に1人と推定され、生後2カ月から6カ月に多いとされています。平成23年には全国で148人の赤ちゃんがこの症例で亡くなっているそうです。

 SIDSの原因はまだわかっておりませんが、男児、早産児、低出生体重児、冬季、早朝から午前中に多いことや、うつぶせ寝や両親の喫煙、人工栄養児に多いことがこれまでの厚労省の研究調査で分かっています。

 SIDSの原因が特定できないということは、その発症を的確に予知予防できないということです。別な言い方をすればいつ誰に発症するか分からないのです。まだ身体的に未熟・未発達な赤ちゃんはほんとに僅かなきっかけや環境状態の影響でその成長が阻害され致命的に変調をきたすことは十分に推量できます。それだけにその危険を避けて通り抜ければその後は何の支障もなく順調に生育することになるのです。

 そんな不運を避けるためにどんなことに留意したらよいかと厚労省や研究者の主なガイドラインを参考までにご紹介します。

厚労省指針:

(1)うつぶせ寝は避ける: うつぶせに寝かせた場合の発症例があおむけ寝に寝かせた場合よりも発症例が多いと報告されている。うつぶせ寝がSIDSの直接原因ではないが、できるだけ赤ちゃんの顔がみえるあおむけ寝で寝かせるようにしましょう。

(2)たばこはやめる: たばこは、SIDS発生の大きな危険因子です。平成9年度の研究では、両親が喫煙する場合、両親が喫煙しない場合の約4.7倍の高い発症率が報告されている。

 (3)できるだけ母乳でそだてましょう: 人工乳で育てた赤ちゃんのSIDSの発症率が高いことが報告されている。

その他(厚労省以外)として:

 (4)添い寝する場合圧迫しないよう注意する。

 (5)やわらかすぎる布団は避ける。

などが挙げられている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この度の熊本地震被災の皆様心からお見舞い申し上げます

 「禍いは忘れたころにやってくる」という諺とは裏腹に、21年前の「阪神・淡路大震災」、5年前の「東日本大震災」の記憶がまだ生々しいというのにこの度の熊本地震、震度7が2回発生という激しいもの。

 ここで52年前昭和39年6月の新潟地震を思い出してみます。震度5はそれほど強いものでなかったが、しかし、新築直後の公共の県営住宅や昭和大橋が見事に倒壊、また石油備蓄タンクが倒壊して石油に引火そのものすごい黒煙が大きくマスコミに報道された。

 震度が5だっただけに、一般家屋の倒壊破損は軽微。しかし新潟地震は地震関連の数々の教訓を残してくれた。地表から地下水とともに砂を噴き上げる液状化現象の認知、地震保険制度の発足整備等々。

 とりわけ新潟市の場合、この地震がきっかけとなって下水道インフラが大きく前進した。

 新潟市はかつては堀と柳のある情緒ある風景の街並み、それを懐かしんで柳都という言葉に親近を感じておるようで、それはそれでなんですが‥。

上の2枚の船の写真をご覧下さい。昭和30年ころの早川堀、ワニのような外見の舟が多くありますがこの船の用途は‥?ズバリ、うんこ運搬船。当時の新潟市の便所はほとんど汲み取り式、汲み取った屎尿(しにょう・汚水)をこの船に積んで郊外の農地に運び肥料としていた。この船、東堀、西堀、新堀等々のこれら船の出入り口が早川堀なのだ。新潟地震は新潟島一帯を水浸しにして街中に溢れたのでした。

 ともあれ、ないことを祈るばかりですが震度5以上が発生の場合、1時間以内のお迎えをお願いします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

三つ子の魂(たましい)|2016年4月

 保育園の一年を通しての園児の出入移動は、卒園は3月一斉ですが入園は学校のように4月一斉とは限りません。とはいえ、やはり4月は新しい園児との出会い入園する人数は普段の月よりは多いようです。

 その入園児の年齢をみると近年0歳~1歳児が断然多くなりました。それというのも最近の少子化の傾向がますます顕著になり、このままでは日本の将来の国勢の衰退が避けられないとの認識と気運がたかまり、制度もどんどん整備されてきました。そして国全体が女性の出産や子育てに対する取り組む姿勢が前向きになり子育てと職業勤務を両立するために保育園を利用することが一般的に具体的になってきました。

 国の姿勢が子育てしやすいように法律、制度、予算等の整備対応が進むと同時に、各企業においても、保育園を利用しながら子育てと職業を両立継続する家庭が当たり前になってきたことに、認識理解対応が進んできました。

 「保育園落ちた、日本死ね」と叫んだブログが匿名ながらも連日マスコミや国会の論争の話題になっている。保育園問題が今ほど国を挙げての話題関心の中心になったことはない。関心になること自体、保育園当事者としてありがたいことですが、現状はちょっと極端過ぎることが気になります。

 さて表題の「三つ子の魂」ですが、この格言は「百までも」と続くことはご存じのとおり。三つ子とは三歳児のことを指しますが、この場合日本古来の数え方ですから、現在風に数えるならば二歳児のこと。 二歳の時までに備わったその子どもの特質性格は百歳になっても変わらないということです。

 75年ほど前に亡くなりましたが、オーストリアの著名な精神科医であり精神分析学者だったジグムント・フロイドが、人の性格や性向は無意識の時期に形成され、人の行動の本質は、無意識における行為の中に実はその本音本心が見いだせるのではと説いた。さらにその本音・本心は無意識の時期に形成される。その時期は1~2歳の時期になる。もっと別な言い方をするなら乳離れの時期その後のおむつ離れの時期にあたるのでは‥。赤沢保育園のひよこ組の時です。

 今更古典的なフロイドかもしれませんが、人の本質は昔も今も変わってはいない。古典から新たな視点がみつかるかも‥。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 第125回卒園式: さる3月26日(土)、無事に15名の卒園児が元気よくそれぞれの思い出とともに赤沢保育園を卒園しました。将来は宇宙飛行士か、プロスボーツ選手等々かも。いずれにしろ健康第一、時々元気な顔を見せてください。下の卒園児全員の顔イラスト入りTシャツとポスターを園長宛にプレゼント、感謝、感謝です。ありがとうございました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

保育園前の小出自転車店店主の小出元二さん(80)、突然亡くなられました。

 3月19日(土)夕方7時ころ、自転車で買い物帰りの園長、玄関前の階段で自転車を上げるのにもたもたしているところを気さくにおしあげてくれました。それから数時間後に急病で亡くなられたのです。

 「世の中一寸先闇」とはよく言いますが、それにしても‥、あんまりのことで、今でも信じられません。

 保育園前で永年園児たちの通園を見守って下さいました。そんなご近所縁もあって保育園の役員もお願いし快くご協力していただきました。本当にありがとうございました。こころからご冥福をお祈り申し上げます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

お遊戯会|2016年3月

平成28年2月27日(土) 9:30~11:30

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

総括 第16回 石井式漢字かるた新潟県大会

 中国の古典に「天行健にして 君子はもって自彊にやまず(天行健 君子以自彊不息)」という言葉があります。その意は「天(体)の動きの変わらないように、君子は自分を絶えず鍛えるものだ」と解します。

 この冬は暖冬だといわれながらも一月下旬の大寒に入ると早速日本列島全域は一斉に降雪に見舞われ、天の動きに明らかな季節を感じる。

 日頃の練習の結果が如実に反映するのが「競技会・コンぺテション」の成績結果ではないでしょうか。

 第16回新潟県大会の入賞者の表を一覧すると、これまで余りふるわなかった「赤沢」の入賞が今回目立ちます。年少・中・長児の諺と俳句の五部門のうち四部門の優勝を赤沢の園児が決める好結果には正直のところ驚いている。

 なお、入賞者の一覧表の姓名の表記は、ご覧のように姓を省いて名だけの表記にしました。これは「園便り」をホームページに載せるため、不測の事態への配慮です。

 今回の参加者総数は219名。人数的には現状の大会運営能力・会場の大きさ等を考慮すると目一杯というところ。

 参加園は例年通りの三条市のふじの木、きらきら、本成寺の三園、新潟市内の西蒲区竹野町、秋葉区の敬愛、江南区割野、大会運営幹事園でもある中央区赤沢の7園。東京渋谷上原こども園と弥彦村の弥彦保育園の参加者がありましたが、何れも元々は三条市のきらきら・本成寺の園児が転居されたのが、この大会にぜひ出場したいとのことでこの日のためにわざわざ来場参加された。

 割野、敬愛、竹野町の3園は他の常連4園とは違って参加することの楽しみに重点を置き、順位までは望まれない姿勢、それはそれなりで結構なことです。しかし一人でも入賞すると空気が変わるのではないかとそれを期待している。

 赤沢の今回の予想を上回る好成績には自園のことながら見事な鮮やかな結果と正直驚いた。12月の午前はほとんど毎日のように練習を重ねていたので例年よりはよろしいかと期待はしていたが、5部門中の4部門に優勝する、そこまでとは予想しなかった。せいぜい2部門も取れれば大出来と思っていた。また5部門の3位以内で考えると15人中6人・40%をしめている。園児部門の全入賞者数40名中赤沢は12名と30%になる。

 子どもたちにそれなりの環境と努力練習を繰り返すならばそれなり以上結果が着いてくるものだと今更感銘を深めている。

 来年の大会は1月7日(土)、会場同じくユニゾンプラザを予定している。